モラハラをする人は、それを受ける相手である子どもや配偶者に対して様々な束縛を行います。
- 仕事・プライベート両方に対する生活スタイルの詮索、干渉、切り離し
- 交友関係の詮索、干渉、切り離し
- モラハラ被害者の家族、親族への詮索、干渉、切り離し
などです。
モラハラは自分の意見が受け入れられなければ被害者である子どもや配偶者に精神的暴力・虐待を行い束縛をより強化します。
また自分の行いに対しいかに正当化するかを必死で述べます。
それっぽい建前や屁理屈をこれでもかと並べて弁解しながら、モラハラ加害者は被害者を束縛することに躍起になります。
モラハラの束縛は愛情の裏返しではない
モラハラはターゲットに対し、自分の「もの」にしたいという独占欲が一番にあります。
独占すると言えば相手の行動を束縛して支配すると言った否定的なニュアンスになりますが、あくまで「愛情の裏返し」であると加害者は被害者である子どもや配偶者に吹き込みます。
そしてそのように被害者がコントロールされ思い込んでしまうことは非常に問題があります。
モラハラは自己愛性人格障害ゆえに「必要とされたい」「必要とされるべきだ」と思っています。
ここで、ちゃんと覚えておきたいことは
モラハラ加害者が相手を束縛するのは愛情からではない
ということです。
自分が相手に負わす精神的暴力や虐待を繰り返し、それを正当化し、それをモラハラ本人は「愛情だ」と断固主張し、加害者は被害者ともに信じ込もうとします。
モラハラの束縛は愛情ではなく「都合が良い相手を求める心」すなわち「完全屈服による隷属を求める支配欲」であり、それは互いの精神性を尊重して認め合う「愛情」では決してありません。
要は「自分(モラハラ加害者)のために意志を捨てて奴隷になれ」という言動なのです。
親密な間柄の相手であるのに、人を人として認知もしなければ尊厳もない。
当然本来なら守るべき家族を守るどころか痛めつけ、被害者である子どもや配偶者を人間として尊重しないのがモラハラです。
モラハラはただ自分の言うことを聞く奴隷を求めているだけです。
モラハラの所有物である奴隷が勝手に自分の元を離れていかないように、厳しく監視したり、命令の遵守を強いてがんじがらめにする
そして、モラハラの鉄板フレーズが
「厳しくするのはオマエのためを思ってやっているんだ!」です。
束縛はモラハラ被害者を自分のもとに置いておくため
なぜ、そんな事を微塵も感じさせずにカモフラージュさせながら主張してくるのか。
それはもちろん
・自分に都合の良い相手を作り出し手元に置いておくため
・自分に対して無条件に服従し全てを肯定させるため
そのために様々な屁理屈、極論、暴論などで理論武装して、モラハラ加害者は被害者の行動を束縛します。
モラハラの束縛は被害者の今まで築きあげてきた常識や人間関係を次々と破壊していきます。
そうする事によって被害者に対して「私には加害者しか頼れる人がいない」という状態に追い込むとが、モラハラ加害者の一番の狙いです。
モラハラの思い通りわたしは友達と呼べる友達が一人もおらず、これ以上ない孤独を経験しました。
モラハラは子どもや配偶者に対しての敬意や尊重といったものは時折「見せかけ」ますが、実質はそのかけらもありません。
モラハラの目的は圧倒的な立場の差で成り立つ、主従関係・支配=奴隷・被支配関係です。
優しい側面も見せることで束縛を強化
モラハラは被害者である子どもや配偶者を都合の良い存在にするため、モラハラの都合の良いものへと作り替えるため、巧妙な手段で被害者に対しその意思の否定や行動の束縛を行います。
当たり前ですが、その際に加害者は「これはオマエらを支配するためにやってるんだ」とあからさまに自分の歪んだ欲望や目的を被害者に示すことはありません。
むしろ加害者は被害者に対する善意を装います。
ただ単に装うならば良いですが、やっかいなことには加害者本人も「自分のやっていることは善意だ、正義だ、何ら恥ずべきものではないんだ」と自分の歪んだ感情を、善意だの正義だのというわかりやすいポジティブな言葉で覆い隠し、自分の行動には一片のやましさや後ろめたさがないのだと信じ込みます。
モラハラ加害者の行動は客観的に見れば、綺麗事をのたまう割には胡散臭さがあり、違和感や不信感が目立ち、それを目の当たりにしつつも口出しをする人がいないという異様な光景が広がります。
モラハラの奴隷には絶対にならない人なら、この独特の空気を読むことができるはずです。
モラハラにコントロールされた機能不全家族
モラハラ被害者はおろか加害者も、その場の異様さを認知できないほどに、目の前の異様な状況に良くも悪くも慣れてしまっている場合もあります
「わたしに関心を持ってくれているんだ」
「わたしを愛してくれているから、心配して言ってくれているんだ」
「わたしを守ってくれているんだ」
と、つい嬉しい気持ち思ってしまえば、それは完全にコントロールされているのでモラハラ加害者の望み通りの奴隷になってしまっている状態です。
わたしの母親はこのようにモラハラ毒父に完全にコントロールされ支配されていました。
モラハラ毒父のやっていることを正当化し子どもにすり込み、虐待を受けた子どもに謝らせ罪を償わせました。
残念なことに、モラハラが思っているような被害者となる子どもや配偶者への「愛情の裏返し」とは呼べません。
モラハラがもつ個人的な歪んだ欲望で形成されているのが、機能不全家族というものです。
そんな「おかしな善意」によって葛藤や緊張に晒された被害者の消耗を見計らい、時に加害者は被害者を気遣う言葉をかけたり、あるいは自ら妥協を申し出たりします。
これらも、「してやったり感」が満載でわざとらしいのが特徴です。
モラハラの精神的暴力・虐待で緊張にさらされ続けてきた被害者は、ここで一時的に解放されます。
そして一時的に「楽に」なります。
こういったときはモラハラ被害者である母親は安心し「お父さんが戻ったよ」といって子どもを安心させようとしました。
母親はよくモラハラ毒父のことを「いいときはいいよね」と評していましたが、それは人間だれしもそうです。
ただ、モラハラの場合は「いいとき」ではない「悪いとき」は、人格を疑うサイコパス的な異常者です。
時にその緊張からの開放感が快楽に変わって加害者のことを「いい人」と錯覚してしまうこともあるでしょう。
そして、緊張にさらされ続けた精神は、解放によって与えられた快楽から「救い」や「希望」を求めるようになります。
人は危機的状況に陥ったとき、生存の可能性を探る本能から、たとえ劣悪で凄惨な状況であっても、自身をその状況に適応させようとします。
わたしも実際モラハラ毒父に殺されかけた経験があります。
心に至っては、数え切れないほど切り裂かれ殺されました。
理不尽な行動の制限をかけられたとき、抵抗が無駄と知ると諦め、逆に支配されるがままでいれば楽になれると気づけば、それを受け入れてしまいます。
モラハラからの虐待を自分の責任にしなければ生きていけませんでした。
このメカニズムを利用することで、モラハラは被害者への支配を確固たるものにしていくのです。
モラハラはこの一連の心理の移り変わりを、ごくごく自然な形で行うのです。
モラハラ加害者にとっては、善意も妥協も次のステップで相手の心を縛り付けるツールに過ぎません。
要は奴隷にするための手段です。
加害者が見せるふとした時の優しさを「愛情」と錯覚してはいけないのはこのためです。
被害者は、愛情とはき違えて理解をしてはいけません。
※毒親に対する不信感は「親がキライ」「親と離れたい」と思う自分に正直な行動をとった方がいい理由
も参考にして下さい。
経済的にも、精神的にも加害者なしでは生きられなくなる被害者
被害者は自身の安定のため、加害者の束縛を受け入れてしまった被害者は、モラハラから全てを握られて逃げられなくなります。
・お金は全て加害者に握られる
・交友関係は加害者を通してでしか決められない
・何をするにも加害者の許可がいる
もはや自分一人では何もできず、加害者の奴隷と成り下がらなければ生活ができません。
この状況は、通常の夫婦関係や親子関係とはまったくもって遠い歪な関係性でしかありません。
しかし、子どもや配偶者はそれを受け入れて生きていくしか方法がないのです。
そこから脱するには勇気のみならず、モラハラに対する知識や第三者からの支援が必要となります。
そのため、モラハラ加害者の束縛への対策は、まず自身がそれを知り恋愛の独占欲などと勘違いしないように、早いうちから「これは愛情でもなんでもない」ということに気づくことがまず重要です。
離れられなくなっても、カウンセリングや病院、相談所など複数のセーフティネットを積極的に持ちモラハラの環境を客観視することが重要です。